キズナアイの件は女性差別なのか?
書いた後に、ちょっと問題の捉え方を間違っていることに気づきました。
どっちかっていうと、女性のポジションよりも萌え絵のほうが問題になっているらしいですね。
論点を外してるかもしれません。
キズナアイさんがNHK解説に抜擢された件
NHKのノーベル賞の紹介的な番組で、キズナアイさんが呼ばれたが、彼女(中の人は男性かもしれないが表面上は女性)がただ単に相槌を打つだけのポジションでいた。
ついでに性的表現が過剰であるとも言われた。
それが女性差別の再生産だとして批判されているという問題。
K氏をとりあえず女性であるとする。
萌え絵の女性が相槌を打つ存在としてテレビで放映されることは、女性差別なのか、もしくは差別の再生産なのか。
(実物を見たわけではないので、間違っていたら教えてください)
差別 差をつけて扱う事 (ぐぐる検索より)
萌え絵の男性を相槌を打つ存在として扱う事
萌え絵の女性を相槌を打つ存在として扱う事
どちらも差別ではないと考えている。
男性女性は別として、相槌を打つだけの存在として扱うことは差別ではない。
例えばスポーツ選手を、スポーツをする人間として扱うことは不当か?
そうではない。
ある人間を特定のポジションに起用すること(スポーツ選手をスポーツする人枠として扱うこと)は、その人またはその人を含む集団を不当に差別するものではない。
ある男性をガリガリの痩せすぎポジションとして起用しても、男性全てがそうであるとも、男性全てがそうであるべきとも言ってない。
男性を痩せた人間であると差別するものでは全くありません。
これは女性だからといっても変わる問題ではない。
じゃあその人が属する集団とその人の属性(たとえば人種、たとえば性別)によるものか?
性別でいうと、男性だからOK女性だからOKみたいな問題になるのか?
萌え絵みたいな属性でいうと、白人だからOK黒人だからOKみたいな問題か?
理由はないがとりあえず人種の場合で考える。
世界中に放送される番組で、日本人がニートの役として起用された。
これは日本人に対する不当な差別か?
そうではない。
その人が日本人だからといって、すべての日本人がニートであるとでも言われているわけではないし、日本人はニートでもやっているべきと言及されているわけでもない。
特に後者の点については、このように言及されているという文脈をこの文だけから読み取ることはできないだろう。
主人公(正義側)が白人、敵(悪)が黄色人種で演じられていて、敵が淘汰されるストーリーだからといってもこれも人種差別ではないように思える。
”黄色人種はクズだから殺せ”という理由なら差別だろうが、他にもっともらしい理由があるなら、差別ではないんじゃないか?
逆に主人公が黄色人種、敵が白人だったとして、もっともらしい理由をつけて倒すなら差別じゃないよね?
太平洋戦争は基本的に黄色人種が白人にやられる”物語”だったけど人種差別ではないよね?
主人公が平均的な身長、敵が高身長の人間たちで、敵の思想を理由に淘汰するストーリーなら高身長に対する差別ではないと思われる。
性別だからといって、主人公を男性とか女性、敵を反対の性に変えたところで差別ではないよね?
でももちろん、「黄色人種はダメ」のように「男性はクズ」とか「女性はクズ」は差別であると言えそうだ。
ここで少し視点を変えて、発話者と受け取る人間に目を移す。
たとえば私の友人が、かなりフレンドリーな雰囲気で冗談交じりに「お前はバカだな」と言ったとする。
これを言われたのは初めてでなく、普段からある種の攻めたコミュニケーションとして何度も行われていたとする。
私はこれにまた、ある種の暴言に近いもので応戦し、それで双方がまったく嫌な気持ちになっていないとする。
これは差別か?
そうではない。
じゃあ私が男性だったといて、「お前はバカだな」は「男性はバカだ」を意味するか?
そうではないであろう。
私が男性でゲイだったとして、まったく同じ状況で「ゲイ野郎」と言われたとする。
これも普段通りのコミュニケーションで、同じく嫌な気持ちにもなってないとする。
これは差別か?そうではない。
私がガリ勉で、「ガリ勉野郎」と言われても差別でもなんでもない。
私が男で、「男」と言われても差別でもなんでもない。
人間って言われたから人間差別ってわけでもないでしょう。
ゲイの場合にだけ差別になるとしたら、それを咎める人間こそが差別を再生産しているのではないか?
このコミュニケーションが差別になるとしたら、ある人間を「ゲイである」とすること、そしてそう呼ぶことが差別になると思っている人間が見ているからだろう。
人間呼びしても差別じゃないのは、人間でいることに非はないと考えているから。
ゲイ呼ばわりするのが差別なのは、ゲイでいることは非であると考えているから。
発話者と受け取り手がそのような非を感じているかどうか、そしてそれを攻めているかどうかは、文脈からは知る由もないだろう。
差別を再生産しているのは、「それは差別である」と咎める周りの人間ではないだろうか。
受け取り手が「差別である」と感じたなら、その本人と発話者の間で解決する問題であり、まわりがとやかく言う話もないだろう。
ありもしない差別をでっちあげて、勝手に被害者の妄想をして肩を持った気になっているのが周りの人間だ。
これと似た問題として、今回の場で女性を相槌を打つ存在として起用することは差別の再生産なのか?
別に他のポジションで起用することもできたであろうし、女性=相槌を打つ存在である
とは誰も言ってませんよね?
今回の起用に差別的な意識があったかどうかは、起用した本人しか知りえない話であって周りの人間には一切わかりませんよね。
それを”差別である”と騒ぎ立てるには「ある女性をたまたま(真意やそうなったほかの理由がわからない以上、偶然とするし、絶対に答えを知ることはできない)そういうポジションに置くことが差別である」と考えていなければいけない。
差別を再生産しているのはむしろ、女性差別だいって騒ぎ立てている側なのではないだろうか。
誰も「相槌打つ人間として誰かを使うことは差別」だなんて言っていない。
ありもしない差別をでっちあげて勝手に騒いでいるんじゃないかと思える。
ありうる反論0
ポジションじゃなくて、萌え絵の性的表現が問題になってる!
これは私が少し勘違いしてたので、上の文とはちょっと別の問題かもしれませんね。
でも似た問題ではあると思っています。
結局は、”性的表現という属性だけを見せるために呼ばれている”みたいな思い違いを勝手にしていて、”それを表に出すことは差別である”、と思い込んでいるだけではないでしょうか。
結局は、自分が萌え絵を見たくないから”女性差別である”という大義名分を使っているだけではないでしょうか。
キズナアイさんが使われているという事実に差別的な要素を見ることはできません。
万が一、全くの静的な表現が許されないとしたら、何が許されるんでしょうか。
無機物ですかね、そうしたら今度はロシア語では男性名詞になっているから駄目!とか言い出しそうです。
なので差別ではなく、ただの「萌え絵は見たくない」という個人の趣向になりますね。
この思想を持つことについては自由ですが、それをあたかも大義名分を持っているかのように、他の人に押し付けるのは阿漕ではないかと思います。
ありうる反論1
でも、そういうポジションに女性が使われるのは嫌!真意は別として、使われるだけでも差別!
あなたが嫌なだけで、女性の権利開放みたいな大義名分を負うのは違いますよね。
「そういうポジション」を勝手に嫌がっているのはあなた個人で会って、一般化できる話ではないと思われます。
ありうる反論2
女性はこれまで差別されてきたんだから、もっといいポジションに使われるべき!
これまでの差別を理由に新たな差別を作るんですか?
差別をなくすという大義名分で差別を作って、結局は個人的に得したいだけですよね。
守られるべきなのは”女性”という集団が受けた損益のバランスじゃなくて、ある個人の受けた損益のバランスじゃないですか?
もちろん、これまでに女性が過度に抑圧されてきた場面はあったと思います。
でもだからと言って、あなたが一方的に利益を享受する理由にはならないと思います。
新たな差別を作り上げたとして、完全な男女平等はいつ訪れるのでしょう?
誰がちょうどいいバランスになったって決めるんでしょう?
なので一方的に、昔の差別を理由に今の女性を優遇するのには違和感を覚えます。
というわけで、私はキズナアイさんの件は差別であると断言することはできず、例え差別であったとしても、この問題を弾劾することは公平には繋がらない思っています。
下積み文化を肯定するわけじゃないんですけど、役に不服があったからといってそれをできなくするのは結局は首を絞めることになるのではないでしょうか。
映画の”フリークス”みたいな話もありますしね。