隠れてきたオタクと、市民権を得つつあるオタク趣味
居場所と承認欲求の再考
オタクについて
いわゆるオタクは以前とは違ったもの、要は隠す必要のないものになっており、私のような旧世代のオタクは居場所を力を失いつつあるかもしれません。
もはやオタク内のマイノリティーになりつつある上に、オタクだったのは昔のことでした。
なので積極的なオタクとは呼べないような存在ですね。
そして自分の居場所を肯定するために、新しいオタクを快く思うことはできません。
「オタクに恋は難しい」にあるようなオタク像に拒否反応を示してしまいます。
二人のオタク
元々の記事で、オタクが先か好きが先かという疑問を持っていました。
オタクだからアニメを見るし○○だ。
ではなく、
アニメが好きだったり○○だからオタクだ
が先だと思うんです。
初期のオタクは後者のタイプだったのではないでしょうか。
一人の人間がいて、その人の趣味なり属性がオタクだった。
あくまでそれは、その人の趣味なり属性であって、その人そのものではありません。
善悪は別として、趣味なり属性なら隠しても悪く思われても、大した問題には感じられないでしょう。
オタクという属性を持つ人がオタクと呼ばれていた時代です。
ここで少し話は変わるんですけど、人は趣味なり労働で居場所を確保する必要がありますよね。
金銭的に可能でも、一生ボーッとして生きていけるとは思えません。
なので何かやること、いわば居場所が必要です。
全く仕事がない職場に、居場所がないと感じるのと同じですね。
どうやって居場所を得るのかというと、趣味なり仕事で特異な点を見せることです。
集団内で他に見ないスキルやモチベーション、特徴を見せることで居場所を確保できます。
でも仕事や勉強でそういう際立ったポイントを見せるのは難しいでしょう。
テストなんかはいい例で、点数で画一的に評価され、トップ層以外で個性を見せて居場所を確保するのは難しいです。
じゃあ代わりに趣味で居場所を見つけることも可能です。
やってて楽しいことなら評価は気になりませんし、趣味は幅広いので居場所を探すのも簡単です。
なのでオタクがいろんな人の居場所になってきた。
一度ついた名前は離れ辛いので、その人口は増える一方になり、ある時市民権を得ることになる。
人数が増えると活動も活発になり、ある時大っぴらにオタクであるということを公表するようになります。
そうなってくると、ある人を呼ぶときに、人間+オタクだったのが、人間という広すぎる集団から抜け出して居場所を確保するために、「オタク」というものになったのではないでしょうか。
今ではオタクという1つの個性、もっと言えばその人そのものがオタクという風に捉えられます。
こうなってくると、オタクやオタク趣味を否定することは、人格の否定に繋がるので問題になってきますね。
それが今の状況ではないでしょうか。
オタクというかくすべき趣味から、主体的なオタクに変わってきた。
オタクはベースとなる人格に近いものなので、否定されるわけにはいかないし、オタクなりオタク趣味を認めてもらうために存在感を発する必要がでてきますね。
そうなってくると以前のように、隠していた世代の考え方には反発してきます。
「ゾーニングはした方がいい気がするけど、表現の自由もなあ」のような微妙な気持ちはここから来てそうです。
そしてオタクは主体なので、それで生きていきたいという欲求も出てくるでしょう。
プロゲーマーや創作活動の普及がこの辺にあたりそうです。
居場所を失ったオタクと新しいオタク
居場所を失いつつあるのを止めたい旧世代オタクvs主体的で居場所を認めてほしい新世代オタクみたいな状況が、今の感じなんですかね。
私は元オタクと呼ばれるようなポジションで、昔ほどのモチベーションはないけど、オタクじゃないとは言えないっていう立ち位置にいます。
脱隠すべき思想世代みたいな感じかな。
しかしその影響を受けているので、大っぴらにオタクだよ~とはいいたくありません。
今日の新世代オタクの登場で、そこまでの個性は無いけどオタクじゃないとも言えない私は居場所を失いつつあるわけですね。
そうなると、居場所を得つつある新世代オタクに嫌悪感なり否定したい気持ちを見せることになるでしょう。
全体で見れば、私も含めたオタク全般が居場所を得ようという運動なので、否定するのは本末転倒ではあるんですけどね。
「自分の居場所を得るために、母集団であるオタク全般の居場所を否定する」という本当に本末転倒な思想ですな。
居場所をかけた戦い
じゃあ次に何が起こるかというと、まあオタクの居場所は確保されるんでしょうね。
居場所は社会の認可制であってはいけませんし。
そして次は、主体になったオタクがもう一度、属性に戻るのではないでしょうか。
オタクというのが居場所を得られたので、それだけではマジョリティーと同じで自分の居場所に特異性がありません。
そうなると今度はさらに細かくなって尖ったオタクが登場しそうです。
オタクのなかでも居場所を確保できる特異性を持ったオタク。
今の私(たち)には理解しがたい趣味嗜好を持つようになるんじゃないですかね。
胸はさらに大きくなり、猟奇的なものを好み、これまで思い付きもしなかったり、なんとなくタブー視されていた趣味を持つようになる。
そして彼らがまた居場所を認めてほしくなり…と永遠に続くのでしょうね。
これっいろんなことに適用できそうです。
趣味みたいな属性だったのが主体になり、そのなかで居場所を得るために対立が起こり認められ、その属性だったものがさらに細かくなる。
命名されることにより、主体的なモノになる。
言語は機能を持っているので、優劣ができて居場所を失う人がいるのも当然ですね。
使える、使えない、用途にあっているかどうか、どの程度当てはまるかなどがわかるようになってしまいます。
命名と多様性
ここで少し話はとぶんですけど、世間では多様性が大事!みたいな動きがありますよね。
そもそも多様性ってわざわざ認めてあげるモノじゃないよっていう突っ込みはおいておいて、その人の個性なり出で立ちを大切にするようになりましたね。
LGBTも認められ、ついでにquestioningのQとかAとかもくっついたりするそうです。
名前がつくことの効果は大きいですよね。
存在を認知させて居場所を確保する。
しかし、この命名によって多様性を確保するやり方には限度があるように感じます。
先ほどのように、名前をつけると集団ができ、またそのなかで居場所を奪い合うことに繋がるでしょう。
「私はこれとはちょっと違うから」という理由でまた別の名前ができたり、その名前の中でも優劣が生まれて新たな問題に繋がったりするでしょう。
累進課税の問題点と似た感じです。
命名されることによるデメリットが、メリットよりも大きくなってしまう人もいるでしょう。
飛べなくっても鳥は鳥
具体的な解決策はわかりませんが、結局いきつく所って「人間って一人一人別の人間だよね」っていう話じゃないでしょうか。
便利のためにつけた名前が主体化して、独り歩きしてしまう。
男って書くだけで「田んぼで働いてると思ってるのか!」とか、
女って書くだけで「くの一だと思ってるのか!」みたいな突っ込みをされてしまう世の中です。
一先ずは、名前に惑わされずに、目の前の人間と自分をしっかりと見ることが大切なのではないでしょうか。
みんな違ってみんなイイ、飛べない鳥も、鳴らないスズもみんな違ってイイんじゃないですかね。