隠れていたオタクが居場所を得るために、今のオタクを迫害しはじめるかもしれない
以前、こんな記事を書きました。
先に行っておくんですけど、私はこの作品は普通に面白いと感じましたし、個人の好き嫌いによって創作を規制するべきとも思っていません。
あくまで”私は”こう思っているよという報告なので、ただの独り言と考えてください。
話は飛ぶんですけど、人間は生きていくうえで何か目標なりやることが必要です。
もし金銭的に可能だったとしても、一生ぼーっと壁を眺めて生きていけるとは思えませんよね。
そこで仕事や趣味で息抜きなり自己実現なりします。
この内容が自分の居場所とも関係しますね。
職場で自分の仕事がないと、「ここに自分の居場所はないな」と思ってしまいます。
自分のやることを得るため、そして承認欲求を満たすために、人には居場所が必要です。
居場所の得方には二つあるのではないでしょうか。
1つは即自的、いわば自分が特筆すべき点を持っており、能動的に動くだけで居場所を得られる。
ものすごく興味のひく趣味を持っていたり、単純にスキルがすごい人はこっちですね。
俺は楽しいからやるぞ!みたいなモチベーションを持っている人とかです。
二つ目は対他的、要は他を否定して自分の居場所を得る人です。
簡単に言えば評論家とかはそんな感じでしょうか。
他を否定することによって、自分はあたかも偉くて居場所があるように見せる。
ちなみに言うと、別にどっちが偉いとかないですよ。
基本的には、どんな人でも前者のタイプから始まると思うんです。
自分のやりたいことをやってみて、それが楽しいからする。
でも学校とかの社会的な集団に属すと、どうしても人数が多くって居場所を失ってしまいますよね。
よっぽど凄くない限り、特技で一番をとることは難しくなります。
そしてもし、その子が「私はこれをしたいからする」というモチベーションを持っていなかった場合、居場所を失ってしまうことになります。
残された居場所の得方は、もう他の否定しかありません。
これがイジメや差別の源泉ですかね。
居場所を得るためには、自分のしていることを肯定する必要があります。
そしてちょっと承認欲求が強いと、自分の居場所でマウントする必要がありますね。
めでたく他の居場所の否定が始まります。
そして話は最初の記事に戻ります。
私は名前を付けるなら、元オタクみたいなのになります。
少し「オタクは隠すべきものである」という思想の影響を受けている人間ですね。
あの「ヲタクに恋は難しい」が苦手な人って、「前はオタクだったけど、今は昔ほどでもない」みたいな人ではないでしょうか。
私は”昔のオタク”という像に縛られており、そこにまだ居場所を感じている。
なのであの作品のように、昔のオタク像とは別のオタク像の出現を受け入れがたいのかなぁと。
居場所を失ってしまいますからね。
今では特に好きで見ているアニメもないけど、オタクじゃないかと言われたら、そうではない。
オタクのような際立った点はないけど、オタクとしか呼べない人間なわけです。
要はオタクの中で居場所を失いつつあるんですよね。
そうしたら、他の否定に走りたくなってしまいます。
昔のオタク像に縛られ、現代的なオタク像を受け入れられない。
昔の人間のように、オタクを迫害して居場所を得ていた人と同じような立場にいるわけです。
じゃあ私はどうすべきなのかというと、その居場所も受け入れることでしょうか。
そもそも人の居場所っていうのは、受け入れる受け入れないは別問題ですよね。
自分がどうありたいからといって、他を迫害していい理由にはなりません。
どう思うかは別として、いろんな人を受け入れられるようになりたいですな。
表面上だけでも。