「わからない」を楽しむ/「亜人ちゃんは語りたい」の高橋先生の凄さ
皆さんは「亜人ちゃんは語りたい」というマンガを読んだことはありますか?
Amazonで一巻だけ無料になっています。
「微笑ましい」「笑えるハーレムもの」「オモシロ可愛い」
レビューから抜粋しましたが、どれも正しいと思います。
しかし主人公である「高橋先生」の生き方、考え方が”ただのハーレム漫画”で終わらせられないくらい最高です。
亜人ちゃんは語りたい
アニメ化された経験もあるので、名前は聞いたことあるっていう人も多いかもしれません。
雑なあらすじとしては、
”亜人”と呼ばれる特異な体質を持つ人たちがごく少数いる世界。
たとえば雪女とか、サキュバスとか、ヴァンパイアとか。
そこで教師をしている高橋先生の元に、個性豊かな四人の亜人が何かを語りに来る…
みたいな。
無料なので、詳しく知りたい方はとりあえず読んでみてください。
本題は、主人公である高橋先生が素晴らしくて「私の理想とする大人像」であるということです。
高橋先生は亜人ではなくて、いわゆる”普通の人”。
大学では生物学を勉強していて、赴任先の学校でレアな亜人に出会えて願ったりかなったり。
いろんなきっかけで四人の亜人と仲良くなり、語られたり語ったりする関係になります。
高橋先生のすごさ
何が素晴らしいかというと、「わからなさ」を許容しているという点だと思うんです。
人と違う点がある「亜人」。
高橋先生としては願ったりかなったりの機会で、彼らについていろいろ研究したいと思っている。
しかし彼らとは「絶妙な距離感」を保つんです。
「俺は亜人について研究していたし、学校の教員だから女子高生のことも知り尽くしている!」ではない。
「わからないから、彼らのことを避けるし、攻撃したりもする」でもない。
「生徒として一個人として対面し、”わからない”ことを許容しながら接している」というところが本当に凄いと思っています。
亜人と言われると、ものすごく個性の立った特異体質のように思われるかもしれません。
ですが、性別も小分けになり、今まで”障害”と呼ばれていたものが「個性」になった今、亜人は「私たちとは全く異質なもの」ではないと思っています。
そういう意味で高橋先生の亜人に対する接し方は、いろんな参考になるものであるのではないでしょうか。
相手が誰であろうと平等に接しようとし、「わからなさ」や「違い」を許容していく。
「亜人だから」じゃない
特に印象的なのが、彼がバンパイアの女の子と会話するシーンです。
初めて仲良くなった亜人である彼女に、了承を取ったうえで質問をぶつけてみます。
「いろんな伝承って本当なの?」とか「牙で血を吸ってみたいと思うの?」とか。
この時点でいろいろ凄いと思うんです。
後の彼の発言に「コミュニケーションとはどこまで許せるか探っていくこと」みたいなのがあるんですが、これもそれを体現したかのようなもの。
自分とは全く違うと思われる人を受け入れ、偏見なしで彼らと接する。
バンパイアだから十字架辛いんじゃないの?のような偏見の押し付けをしない。
「亜人の研究をしていたから全部わかってるよ」という驕りを持たない。
一人の人間であることを理解して、「彼女も思春期の女の子なんだな」と思えばちゃんと距離をとる。
理想のコミュニケーションではないでしょうか。
特に凄いのが、「知った気になっていない」という事だと思うんです。
高橋先生は大学で亜人のことを研究していたり、学校教員をやっていることもある人です。
そんな人が「女子高生の亜人」に対して敬意と「一人の人間である」という意識をもって向かえることが本当に素晴らしいと思います。
まとめ
「自分と違う人間に、敬意をもって接すること」
亜人である前に一人の人間であることを理解すること。
「亜人だから」という括りでみんなを同じであるように扱わない事。
理解した気にはならないけど、理解しようと努めること。
「亜人だから」持っている体質に気が付いても、それを表に出さない事。
「亜人だから」を「特異な体質」に読み替えたら、”普通の”人間にも通じることではないでしょうか。
全ての人は”特異な体質”と呼べるものを持っていて、それは亜人であるということとも通じるかもしれまえせん。
それは”障害”とも呼べるかもしれないし、”個性”とも呼べるかもしれない。
そんな人と接するとき、高橋先生の立ち振る舞いは参考になるところがあるかもしれません。
まあ、マンガとして普通に面白かったのでぜひ読んでみてください。
無料ですしね。