やる気を出すためのやる気を出す
「やる気」って何なんですかね?
生きていると諸々のタスクが降りかかってきて、逃げずに処理しなくちゃいけないこともあります。
もちろんすぐに取り掛かって終わらせるに越したことはありません。
「嫌だなぁ」ってナヨナヨしている時間も勿体ないですしね。
しかしそうは思っても上手くはいきません。
どうしたってやる気がでない日もあります。
そういう日って、起きたときになんとなく判ったりしません?
起きたときに「今日はダメな日だ…」という天啓が下りてくるんです。
セルフハンディキャッピングですかね、それでも結構。
こういう日って何しても基本変わりませんからね。
基本は「まあしょうがないしノンビリ過ごすか…」と受け入れる。
けれども用事があるとそうともいきません。
「うわー行きたくないな~」って思いながら行って、
「今日はダメだな~」って思いながら過ごして、
「今日はダメだったな~」って思いながら一日を終える。
ノンビリ過ごしても同じようなこと思いながら過ごしてるんですけどね。
しかしこういう日に無理すると翌日にも響くので、映画見たりマンガ読んで過ごしてた方が有意義です。
たまに書いているマンガとか映画についての記事は、こういう日があってこその産物だったりします。
ところで巷にはいわゆる「やる気を出す方法」みたいなので溢れていますが、実際に効果あったりするんですかね?
「”やる気を出す方法”を実践するためのやる気」が必要になってくるので、結局変わらないんじゃないかとか思うんですけど。
「タスクを小さいのに分解する」みたいなのは、必要なやる気の量が減るので理に適っているのかもしれません。
でもやる気が出ない日って、その程度のやる気さえ出ない事が多い気がします。
少しだけやって、「ここからは明日でいいか…」とか「今日くらいいいか…」みたいな。
毎日仕事をしている社会人の方には頭が上がりません。
タスクと出社は別問題ですかね?
「宿題はできないけど学校には行ける」のように出社くらいは出来るかもしれません。
これも”出社”とか”登校”みたいな小さな行為が、やる気を出すきっかけになっているのかもしれません。
そこさえ出来ないこともしばしばありますけど。
やる気をだすためのやる気が出ないわけですね。
屁理屈でしょうか。
でも”やる気”が「何かをするためのエネルギー」みたいなものだったら、やる気を出すのにやる気が必要なのはまあ当然です。
人間って、物を消化するのにもエネルギーが必要らしいですからね。
「栄養を吸収するためにも栄養が必要」みたいに「やる気を出すためにもやる気が必要」なわけです。
そういえば「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」にもこんな話がありましたね。
「○○にダイヤルして、自分を幸福な気分にしたくもない」みたいな。
しかし”やる気”っていうのは、出したくて出せるものではない気がします。
何かをやり遂げたときに「あの時はやる気があった」と理由付けして、初めてやる気があったことになるのではないでしょうか。
今持っているのが”やる気”なのか、”やりたいという願望”なのか区別はつきません。
願望に「やりとげたという事実」がついて「やる気があった」という事実になるのではないでしょうか。
そもそも本来の目的って「やる気を出すこと」ではありませんからね。
そこにこだわる必要もない気がしてきました。
「やる気がなくてもやる」、要は「やりたくないことをやる」。
なかなか大変ですな。
やりとげたらご褒美でも用意をしておけば、何とかなるかもしれません。
美味しいご飯を用意して、古典的条件付けするみたいな。
時間や社会に囚われず、幸福に空腹を満たすとき、つかの間、彼は自分勝手になり、自由になる。
誰にも邪魔されず、気を遣わずものを食べるという孤高の行為。
この行為こそが、現代人に平等に与えられた最高の癒し、と言えるのである。孤独のグルメより
「これを終わらせたら美味い飯を食えるぞ」っていう目標意識は良いですね。
”やる気教”のような宗教を信じるよりもよっぽど私には合ってます。
そういう意味では、前の「タスクを分解する」のも「ご褒美を目的とする」のも”目を背ける”というのが肝要なのかもしれません。
「始める」ことに重きを置いてみたり、「終わった後」を目標に頑張ってみたり。
その点、友達と一緒にやるっていうのは理に適っているかもしれません。
友達と一緒にやれば勝手に始められますし、終わった後に一緒にご飯を食べるのが目標になりもする。
「友達と一緒にやるなんて勉強から目を背けているだけ!」って聞いたりしますが、それこそが大切なのかも。
タスクと程よい距離感を保つ。
真に受けすぎて押しつぶされないけど、目を背けすぎないような距離感。
先生の小言くらいの距離感ですかね。
なんとなく受け流していきましょう。