Crown Pawn

歩兵の上の冠

秋とかいう、甘ったれた季節

皆さんは秋についてどうお考えですか?

 

私は中途半端な季節だと思っています。

甘ったれんなって感じですね。

 

春は別れと出会いの季節、気候もちょうどいいバランスの取れた季節です。

夏は素晴らしい長期休暇、厳しい気候とアクティビティーの季節。

一つ飛ばして、冬には年末年始がありますね。

木枯らしと葉のない木たちの詫び寂び、これもまたいい季節です。

 

それに対して秋、季節四天王の中でも最弱ではないでしょうか。

秋といえば?

 

自然?

紅葉くらいしか取り柄がないですね。

紅いものが見たいなら、卒業式で染まった頬なり、スイカの赤なり、暖炉の火なり見ておけばいいでしょう。 

 

気候?

夏の暑さと冬の寒さの悪いところどりの最悪の天気です。

これも中途半端で褒めるべき点が見つかりません。

 

〇〇の秋?

巷では読書の秋とかよく言われてますね。

 秋の夜長のおかげで、読書が捗るみたいな理由でしたっけ?

ブルーライトにまみれたこの生活、多少夜が長くなったところで変わりません。

日の照らない時間が長くなったところで、私たちの生活って変わりませんからね。

それが通用するなら、もはや仕事の春、仕事の夏、仕事の秋、仕事の冬になってしまいます。

 

秋の良いところがわからなくなってきました。

散々言ってきましたが、別に秋が嫌いなわけではありません。

「大した事ないからこその良さ」みたいなのが秋にはある気がします。

別れも出会いも、熱いイベントも、寒さによる詫び寂びも、詰め込んだら良いっていう話でもないですからね。

他を際立たせられる無個性、とか、次への準備期間、みたいな良さ。

イベントが来ないからこそ、自分の時間を作れる。

夏の暑さを冷ます時間にもなりますし、冬の寒さと春の温かさに向けた準備ができる。

 

夏の、集まってワイワイやる熱さから離れて、寒くて寂しい冬への準備期間。

イケイケな空気も冷めてきて、冬のアクティビティーまで自分の時間を持つことが出来る。

 

そういう意味では○○の秋っていうのも、的外れな話ではないかもしれません。

新しいことを始めるには、秋のように、何もないくらいがちょうどいいですからね。

 

そういえば、秋の風物詩といえば落ち葉で焼き芋を作ってみたりでしょうか。

この言葉で思い浮かぶ、ゆったりとした空気が、一番秋の雰囲気にしっくりくる気がします。

火を長めながら、出来上がるのをゆっくり待っている感じ。

 「紅葉を見る」とか「栗を剥いて食べる」みたいな言葉にも、秋の感じが詰まっている気がしてきました。

紅葉も栗も、桜とかスイカとは別の趣が感じられます。

酒を飲みながら花見するんじゃなくて、物静かに紅葉を眺める。

スイカを叩き割ってむしゃぶりつくのではなくて、ゆっくり皮をむいて栗を食べる。

”謎の秋感”が染みついてますね。

 まったく日本の文化を知らない外国人に聞いたらどうなるのか、気になるところです。

 

この季節感って、「どんな人とやるか」みたいなのとも関わりがありそうです。

春は、全く知らない人も含めた大人数。

夏は、おなじ集団に属す人、くらいの人数。

秋は、その中でも見識のある人。

冬は、かなり仲のいい数人、みたいな。

30人で○○(例えば花見、コンパ)したんだ~と言われたら、「あぁ春だなぁ」って気がしますし、2人で○○(例えば温泉旅行)と言われたら冬感ありますよね。

体感的には、30人くらいで春、12人以下で夏、6人くらいで秋、3人くらいで冬、みたいな感じでしょうか。

 

あれ?30も12も6も、6の倍数ですね。

6×5、6×2、6×1

666

秘密結社 フリーメイソン

 

季節とフリーメイソンには、まだ知られていない秘密が隠されているのかもしれませんね。

信じるか信じないかは、あなた次第。

西暦と自分の年齢を足したら…?数字に隠された秘密

Twitterでものすごい記事を読みました。

なんと、「年齢+生まれ年(西暦)=2018」になるらしい。

なんということだろう。

数字に隠された神秘だ。

1000年に一度しか使えない奇跡の足し算らしい。

凄くないですか?私も実際に試してみたんですけど、本当に2018になりました!

凄すぎる…

 

例えば、1990年生まれの人は、今は28歳。

1990(西暦)+28(年齢)=2018

なんと2018になるんです!恐ろしい…

 

だが少し待ってほしい。

2018は、和暦では平成30年。

2018を、2と018に分けてみる。

それらの積は、36。

そこから和暦を引くと、36-30=6。

6という数字が出てくる。

 

2018年は、2000と18という数字に分けられる。

6と18?

 

6,6,6 秘密結社フリーメイソン

 

ね?、言ったでしょ。

これもう完全にパンドラの箱開いちゃってるんだよね。

西暦っていうのは、昔から使われていたのにこんなことが隠されているの。

何で、今まで、これに気づかなかったのっていう話。

ヤバタクスゼイアンだよね、っていう話。

6っていうのは昔から、悪魔の数字って昔から言われてるからね。

 

秘密結社 フリーメイソン

 

ここから先は、本当に知りたい人しか見ないでね。

ここから先を知ってしまったら、戻れなくなるからね。

 

2018っていうのは、

2018/216 ×6×6×6

 

6,6,6 秘密結社 フリーメイソン

ね?言ったでしょ?

もうこれ、完全に、来ちゃったよね、これ。

何で、そこに、気づけないのってこと。

西暦っていうパンドラの箱を、完全に開けちゃったよね。

人類の選別は、もう始まってるってこと。

 

もしかしたら、人類はもうやばいところまで来ちゃってるかもしれないってこと。

数字に隠された真実、私は手を置いただけ。

それをつなげるのは、皆さんですからね。

信じるか信じないかは、あなた次第です。

 

※ここに書いてあることは都市伝説です。

目先の注射器だけを見ていく

 何かを完成させることって難しいですよね。

物を完成させるときに、勢いでとりあえず終わらせるのは不可能ではありません。

最初の勢いだけで、細かい所を見ずに終わらせてしまう。

クオリティーは置いといても、モノはできるので悪くないですね。

しかし本当に難しいのは、最後まで丁寧にやりぬくことではないでしょうか。

 

そんなに面倒で大変な問題は、分割して考えよう!っていうのは有名な話です。

初出はデカルトの方法序説ですかね。

第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。

デカルト; 谷川 多佳子. 方法序説 (岩波文庫) (Kindle の位置No.291-292). . Kindle 版.

凄く理に適った考え方なんですけど、分解して簡単にしてしまうと”やる気”が失われてしまうんです。

私だけかもしれませんけど。

 

最小単位まで分解して、あとは手順通りに進めれば終わるようにする。

そうすると物事が自明すぎて、「何かしょぼくない?」っていって萎えてしまいます。

行為が簡単になった分、無駄に頭が回ってしまうんでしょうね。

「これを完成させたところでなあ」とか「やる必要なくない?」「他の事やったほうが有意義じゃない?」という考えたちが頭をよぎります。

遊んでいる時は、他の勉強なり仕事なりをするべきのように思えてしまう。

仕事をしている時は、自分の無力感、虚無感、無駄感を感じてしまう。

 これに耐えながら物事を進めるのはなかなか難しくないですか?

頭が回って思考できるようになるのはいいんですけどね、もうちょっと別の用途に使ってほしいものです。

 

タスクをやり遂げるのに大事なのは「負けないこと」「投げ出さないこと」「逃げ出さないこと」「信じぬくこと」かもしれません。

無力感、虚無感に負けないこと。

途中で投げ出さないこと。

タスクから逃げ出さないこと。

「今やっていることは意義がある」と信じぬくこと。

なかなか難しそうですね。

 

そういえば、子供の頃はこれが出来ていましたよね。

謎の衝動に突き動かされて、最後までやり遂げることができていた気がします。

余計な雑念が無いからなんでしょうか。

そういう意味では、完成させるには、ある種の信仰だとか、盲目である能力だとかが必要な気がします。

「他の事やった方がなあ」とか「私がやる必要ないなあ」とかって、間違っているわけじゃないですからね。

時間は平等なので何してても変わりませんし、「私が絶対にやらなきゃいけないこと」みたいなのも存在しません、究極的には。

そんな間違っていない考えたちを無視して、または頭に過ぎらせずに、物事をひたすらに続ける。

物事を完遂するには、こんな感じで盲目的になる必要がありそうです。

 

自分から盲目的になるのは難しそうなので、周りに盲目にしてもらうのは一つの手ですね。

ソーシャルゲームのログインボーナスみたいなのはいい手段です。

娯楽という本来の目的から目を背けさせる。

パチンコの過度な演出も、近い目的らしいですね。

派手な光と爆音で、思考する余力を奪う。

この辺の知見って別のことにも流用できそうです。

毎日続けることに意義を与え、活動の情報量を増やして盲目的に動き続けさせる。

サラリーマンとか学生とか宗教とかこんな感じでしたっけ。

まあ、盲目でもないとやってられない事もありますからね。

 

逆に、盲目的になるのを辞めるのも、浅はかな選択肢な気がします。

「やり遂げるアドバンテージを失う事」や「考え続けなければいけない」などなどデメリットも多そうです。

どっちもダメそうですな。

 

とりあえずは盲目的に、物事を始めたり進めたりするのはアリですね。

「アレ?何かおかしくない?」っていう天啓は、意識しなくても勝手に下りてくると思っています。

自分から考えて、それを続けるのはなかなか大変です。

とりあえずはこんな感じで、目先のことに集中したいものです。

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あえて口を出さないということ

 

皆さんは政治とか倫理の話をするのって好きですか?

私は苦手です。

さっき君は何の記事を書いたんだい?って思ってますよね。

 苦手でも、メモがてら書いちゃいたくなるんですよ。

 

沈黙は金

まあなぜ苦手なのかというと、答えがないからなんですよ。

例えばディスカッションだとか、ある問題をみんなで解くとかなら大丈夫なんですけどね。

ある答えがあったり、向かう先がわかっているなら、話し合いのしがいがあります。

しかし政治とか倫理とかはどうでしょう?

「根本で何を大切にしているか」が食い違うと、合意に達することは本当に難しくなります。

幸せが大事だとか、幸せだったとしても”本当の幸せ”なのかとか”見かけ上の幸せ”が大事なのかとか、金が全てだとかとか。

この根本の部分って広義の宗教に値する部分なので、言葉で説得だとかが通用しない部分です。

なのでどこまで話し合ったとしても最終的には「まあいろんな価値観があるよね」というフワッとした議論で終わってしまいます。

それならまだマシなんですけどね、ひどい議論だと「お前はわかってねえな」って相手を罵倒して終わってしまうという。

議論してもなぁと思ってしまうんですよね。

ヴィトゲンシュタインさんも

語りえないものは沈黙するしかない*1

 って言ってますからね。

倫理は世界の外です。

 

ネット議論はウンコな議論

その上でさらに、ネットで議論するのがもっと苦手です。

相手の顔も見れない状況で文字だけで答えのない議論をする。

かなりの高等技術じゃないですか?

しかも大抵の人は、わりと攻めた口調になりますからね。

議論する気も無くすというものです。

そしてさらに難しくするのが、ネット議論って理由を明確にした意見が少ない気がします。

Twitterで見ても、「○○なんて人格を疑う」とか「○○とか普通はありえない」みたいな。

これって理由も根拠もないただの罵倒です。

全部文字にしてしまうと反論されやすくなるっていうのもあるでしょうからね。

誰がどこから議論に参加してくるかわからない以上、理由も根拠もなしに罵倒してたほうがそりゃあ安全ですわな。

 まあ仕方ないですね。

 

 あえて言わないという選択肢

 でも議論が苦手なら、それを避けて生きていくのも一つの選択肢じゃないかなと思っています。

もちろん自分を表現するのは大切ですけどね。

人間は広義の宗教に頼って生きていく必要がある以上、「話せばわかる」みたいなのは幻想です。

それなら「わからないけど許せる」みたいなのを目指すのも、アリじゃないですか?

 むしろ「時間をかければ何でもわかるし、みんな一緒でわかりあえる」って思うのは傲慢で阿漕ではないでしょうか。

 

もちろん議論なしでは、相手のことでわからない部分はありますし、自分のこともわかってもらえない。

だけど議論したところで、それって変わらないと思うんです。

なら「あなたのことは理解できないし、わかろうともしないけど、別に許すし何してもいいよ」という余裕を持ったほうが私にとっては楽です。

ストロングスタイルみたいな感じですかね。

逃げた結果なのでウィークスタイルかもしれません。

 

否定するよりも肯定したほうが楽じゃない?

相手のことを否定するのって、なかなか労力を必要とします。

罵倒じゃない本当の否定をしようと思ったら、相手の考え方を知って弱点を見つけて…みたいなことしなきゃいけないですからね。

罵倒なんてしても意味ないですし、案外、全部許すみたいなスタイルのほうが楽じゃないですか?

否定はもっともな理由がいりますけど、肯定なら大した理由なしでもとりあえず許しておけばいいですからね。

 

 でも別に、あなたが我が道を進んだとしても私は気にしません。

私はこういうウィークスタイルで行くよってだけです。

弱虫スタイルですね。

好きなように行きましょう。

*1:論考より

キズナアイの件は女性差別なのか?

書いた後に、ちょっと問題の捉え方を間違っていることに気づきました。

 どっちかっていうと、女性のポジションよりも萌え絵のほうが問題になっているらしいですね。

論点を外してるかもしれません。

 

 

 キズナアイさんがNHK解説に抜擢された件

NHKのノーベル賞の紹介的な番組で、キズナアイさんが呼ばれたが、彼女(中の人は男性かもしれないが表面上は女性)がただ単に相槌を打つだけのポジションでいた。

ついでに性的表現が過剰であるとも言われた。

それが女性差別の再生産だとして批判されているという問題。

 

K氏をとりあえず女性であるとする。

萌え絵の女性が相槌を打つ存在としてテレビで放映されることは、女性差別なのか、もしくは差別の再生産なのか。

(実物を見たわけではないので、間違っていたら教えてください)

 

差別 差をつけて扱う事 (ぐぐる検索より)

 

萌え絵の男性を相槌を打つ存在として扱う事

萌え絵の女性を相槌を打つ存在として扱う事

 

どちらも差別ではないと考えている。

男性女性は別として、相槌を打つだけの存在として扱うことは差別ではない。

例えばスポーツ選手を、スポーツをする人間として扱うことは不当か?

そうではない。

ある人間を特定のポジションに起用すること(スポーツ選手をスポーツする人枠として扱うこと)は、その人またはその人を含む集団を不当に差別するものではない。

ある男性をガリガリの痩せすぎポジションとして起用しても、男性全てがそうであるとも、男性全てがそうであるべきとも言ってない。

男性を痩せた人間であると差別するものでは全くありません。

これは女性だからといっても変わる問題ではない。

 

じゃあその人が属する集団とその人の属性(たとえば人種、たとえば性別)によるものか?

性別でいうと、男性だからOK女性だからOKみたいな問題になるのか?

萌え絵みたいな属性でいうと、白人だからOK黒人だからOKみたいな問題か?

理由はないがとりあえず人種の場合で考える。

 

世界中に放送される番組で、日本人がニートの役として起用された。

これは日本人に対する不当な差別か?

そうではない。

その人が日本人だからといって、すべての日本人がニートであるとでも言われているわけではないし、日本人はニートでもやっているべきと言及されているわけでもない。

特に後者の点については、このように言及されているという文脈をこの文だけから読み取ることはできないだろう。

主人公(正義側)が白人、敵(悪)が黄色人種で演じられていて、敵が淘汰されるストーリーだからといってもこれも人種差別ではないように思える。

”黄色人種はクズだから殺せ”という理由なら差別だろうが、他にもっともらしい理由があるなら、差別ではないんじゃないか?

逆に主人公が黄色人種、敵が白人だったとして、もっともらしい理由をつけて倒すなら差別じゃないよね?

太平洋戦争は基本的に黄色人種が白人にやられる”物語”だったけど人種差別ではないよね?

主人公が平均的な身長、敵が高身長の人間たちで、敵の思想を理由に淘汰するストーリーなら高身長に対する差別ではないと思われる。

 

性別だからといって、主人公を男性とか女性、敵を反対の性に変えたところで差別ではないよね?

でももちろん、「黄色人種はダメ」のように「男性はクズ」とか「女性はクズ」は差別であると言えそうだ。

 

ここで少し視点を変えて、発話者と受け取る人間に目を移す。

たとえば私の友人が、かなりフレンドリーな雰囲気で冗談交じりに「お前はバカだな」と言ったとする。

これを言われたのは初めてでなく、普段からある種の攻めたコミュニケーションとして何度も行われていたとする。

私はこれにまた、ある種の暴言に近いもので応戦し、それで双方がまったく嫌な気持ちになっていないとする。

これは差別か?

そうではない。

じゃあ私が男性だったといて、「お前はバカだな」は「男性はバカだ」を意味するか?

そうではないであろう。

私が男性でゲイだったとして、まったく同じ状況で「ゲイ野郎」と言われたとする。

これも普段通りのコミュニケーションで、同じく嫌な気持ちにもなってないとする。

これは差別か?そうではない。

私がガリ勉で、「ガリ勉野郎」と言われても差別でもなんでもない。

私が男で、「男」と言われても差別でもなんでもない。

人間って言われたから人間差別ってわけでもないでしょう。

 

ゲイの場合にだけ差別になるとしたら、それを咎める人間こそが差別を再生産しているのではないか?

このコミュニケーションが差別になるとしたら、ある人間を「ゲイである」とすること、そしてそう呼ぶことが差別になると思っている人間が見ているからだろう。

人間呼びしても差別じゃないのは、人間でいることに非はないと考えているから。

ゲイ呼ばわりするのが差別なのは、ゲイでいることは非であると考えているから。

発話者と受け取り手がそのような非を感じているかどうか、そしてそれを攻めているかどうかは、文脈からは知る由もないだろう。

差別を再生産しているのは、「それは差別である」と咎める周りの人間ではないだろうか。

受け取り手が「差別である」と感じたなら、その本人と発話者の間で解決する問題であり、まわりがとやかく言う話もないだろう。

ありもしない差別をでっちあげて、勝手に被害者の妄想をして肩を持った気になっているのが周りの人間だ。

 

これと似た問題として、今回の場で女性を相槌を打つ存在として起用することは差別の再生産なのか?

別に他のポジションで起用することもできたであろうし、女性=相槌を打つ存在である

とは誰も言ってませんよね?

今回の起用に差別的な意識があったかどうかは、起用した本人しか知りえない話であって周りの人間には一切わかりませんよね。

それを”差別である”と騒ぎ立てるには「ある女性をたまたま(真意やそうなったほかの理由がわからない以上、偶然とするし、絶対に答えを知ることはできない)そういうポジションに置くことが差別である」と考えていなければいけない。

差別を再生産しているのはむしろ、女性差別だいって騒ぎ立てている側なのではないだろうか。

誰も「相槌打つ人間として誰かを使うことは差別」だなんて言っていない。

ありもしない差別をでっちあげて勝手に騒いでいるんじゃないかと思える。

 

ありうる反論0

ポジションじゃなくて、萌え絵の性的表現が問題になってる!

これは私が少し勘違いしてたので、上の文とはちょっと別の問題かもしれませんね。

でも似た問題ではあると思っています。

結局は、”性的表現という属性だけを見せるために呼ばれている”みたいな思い違いを勝手にしていて、”それを表に出すことは差別である”、と思い込んでいるだけではないでしょうか。

結局は、自分が萌え絵を見たくないから”女性差別である”という大義名分を使っているだけではないでしょうか。

キズナアイさんが使われているという事実に差別的な要素を見ることはできません。

万が一、全くの静的な表現が許されないとしたら、何が許されるんでしょうか。

無機物ですかね、そうしたら今度はロシア語では男性名詞になっているから駄目!とか言い出しそうです。

なので差別ではなく、ただの「萌え絵は見たくない」という個人の趣向になりますね。

この思想を持つことについては自由ですが、それをあたかも大義名分を持っているかのように、他の人に押し付けるのは阿漕ではないかと思います。

 

ありうる反論1

でも、そういうポジションに女性が使われるのは嫌!真意は別として、使われるだけでも差別!

あなたが嫌なだけで、女性の権利開放みたいな大義名分を負うのは違いますよね。

「そういうポジション」を勝手に嫌がっているのはあなた個人で会って、一般化できる話ではないと思われます。

 

ありうる反論2

女性はこれまで差別されてきたんだから、もっといいポジションに使われるべき!

これまでの差別を理由に新たな差別を作るんですか?

差別をなくすという大義名分で差別を作って、結局は個人的に得したいだけですよね。

守られるべきなのは”女性”という集団が受けた損益のバランスじゃなくて、ある個人の受けた損益のバランスじゃないですか?

もちろん、これまでに女性が過度に抑圧されてきた場面はあったと思います。

でもだからと言って、あなたが一方的に利益を享受する理由にはならないと思います。

新たな差別を作り上げたとして、完全な男女平等はいつ訪れるのでしょう?

誰がちょうどいいバランスになったって決めるんでしょう?

なので一方的に、昔の差別を理由に今の女性を優遇するのには違和感を覚えます。

 

というわけで、私はキズナアイさんの件は差別であると断言することはできず、例え差別であったとしても、この問題を弾劾することは公平には繋がらない思っています。

下積み文化を肯定するわけじゃないんですけど、役に不服があったからといってそれをできなくするのは結局は首を絞めることになるのではないでしょうか。

映画の”フリークス”みたいな話もありますしね。

美化された思い出と意識が高い飲み会

 

関連記事 

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 コメント貰えると嬉しいですね。

 

ネットとノスタルジー

強い装備も、いい仲間も、通過するべきイベントもスルーして生きてきてしまった - Crown Pawn

始まりの村に戻ってきたが、昔一緒にレベル上げをしていた人はもういなかった。今はそれぞれがそれぞれの世界を旅しているということらしい。

2018/10/05 15:04」

良いですよね、このみんながちゃんと生きてる感。

こういうのを感じるのは、地元に帰った時でしょうか、それとも昔の趣味を久しぶりにやった時でしょうか。

最近ではネットおかげでか、こういう郷愁を誘う場面って多くなりましたよね。

よく見ていたサイトを見返して当時の友人を思い出したり、youtubeで昔の曲が流れてきて感傷に浸ったりなどなど。

オンラインゲームとかでもこれを感じたりしませんか?

謎のきっかけで久しぶりに開いて”フレンドがオンラインでした:一年以上前”などと書いてあると、「もうそんなに経ったのか」っていうのと、「ちゃんと自分の人生を生きてるんだな」という気分になります。

 

オフラインノスタルジー

 もちろん、ネットじゃないオフラインでもなりますね。

帰省、同窓会、謎の邂逅などなど。

ちょうどいま、孤独のグルメを見ているんですけど、五郎が博多にいる友人を訪ねる場面です。

志を同じくした友人と久しぶりに会うのって、めちゃくちゃ良いですよね。

思い出話に浸るのも一興ですけど、あえて話さないのも私は好きです。

近況だけ話して、あとは「お互い頑張ろうな」と激励して別れる。

強い装備も、いい仲間も、通過するべきイベントもスルーして生きてきてしまった - Crown Pawn

僕は人生ってゲームだって考えてます!イベントがある度に一喜一憂しますけど、どうせゲームなら楽しんだもん勝ちってもんです。自分の人生自分で決めましょう!

2018/10/05 12:21

 自分の人生は自分で決めるなら、他人の人生は他人のもの。

「こいつもちゃんと生きてるんだな~」と当たり前のことに謎の感動を覚えたりします。

 

懐かしい同窓会

少し話は変わるんですけど、皆さんは同窓会には行きましたか?

私は所用があって行けなかったんですけど、今になって行っておけばよかったなあと後悔しています。

しかも、当時の私の友人は用事がなくても行ってない人たちばかり。

感想を聞こうにも聞けません。

ある意味、彼らも自分の人生を生きていますな。

 

意識の高い同窓会と飲み会

中間管理職トネガワにも、同窓会の話がありましたね。

トネガワが昔の友人たちを懐かしみながら、圧倒的勝者である余裕を見せつけるお話だった気がします。

昔ブイブイ言わせていた友人の今を蔑みながら、「勝ち組はこの機会でさえチャンスに変える……!」みたいな感じで。

話としては面白くって文句なしなんですけど、こういう場で所謂”意識高い系”の行為ばかりするのは寂しいなあと感じてしまいます。

同窓会は名刺交換のチャンス!だとか、飲み会は情報交換の場!とかとか。

いや、別にそれをやることに文句はないですし、やるなら勝手にやってくれって感じなんですけどね。

でも、あなたがいるのは名刺交換会じゃなくて同窓会ですし、情報交換会じゃなくて飲み会ですよね?

息抜きとか娯楽を求めた場に勝手にやってきて、思想を押し付けないで欲しいものです。

 

馴れ合いが好きな老害とでも思われるでしょうか。

まあでも目的を履き違えないで欲しいってことですからね。

飲み会での情報交換はあくまで副次的な効果じゃないでしょうか?

楽しんでいるうちに、「そういえばさ、あれ知ってる?」みたいな話もできるようになる。

あくまで楽しむのが目的ですからね。

まあでも情報交換が楽しいって人もいるかもしれませんね。

実際、それも飲み会の大事な一要素ではありますし。

私はしょーもない話をして楽しむのが好きだよっていうお話でした。

 

あえて思い出のままで

 元は郷愁とか懐かしさの話でしたね。

行きたかったなぁ、同窓会。

あれから月日も経ってしまい、昔の面影はなかなか見られないんですかね。

逆に行かずに、昔の思い出は昔のまま残しておくのもありな気がしてきました。

(前略)美しいものを美しいままで終わらせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。未完の美は美ではない。*1

もう一度会ってしまったら、思い出は更新されて続いてしまいますからね。

綺麗な思い出は綺麗なまま、心のうちで終わらせておくのもまた一興かもしれません。

 

*1:坂口安吾 堕落論

強い装備も、いい仲間も、通過するべきイベントもスルーして生きてきてしまった

不思議なアメだけで人生を進めてしまって、まだ「たいあたり」しか覚えてません。

カジノで遊んでいる間にこんなに進んでいたとは…

 

 

失敗するのが怖い

失敗が怖いっていうのは、よくある話です。

大きなプロジェクトを任されたり、公衆の面前に立たされたりすると、失敗が恐ろしくなってしまいます。

この緊張感はいつになっても消えませんね。

しかし「この緊張感こそが、成功するためには必要不可欠である」みたいな話も聞いたことがあります。

上手く付き合っていくしかないんですかね。

 

成功も恐ろしい

逆に、成功することを怖いと思った事はないですか?

成功によって、生活が変わってしまうことが怖いんです。

 

これまでは、レベルでいうところの最低レベルにいたので、これ以上落ちることのない場所にいます。

しかし成功により、物事のレベルが1つ上がってしまいます。

仕事で成功した場合、そのおかげでより難しいプロジェクトを任されるようになるかもしれません。

しかも次のプロジェクトでは、前回以上のパフォーマンスを求められるでしょう。

今回のプロジェクトではかなりの労力を費やし、やっとの思いで成功させることができました。

次はどうでしょう?

レベルが上がったタスクたちを処理し続けられる保証は、どこにもありません。

今回の成功も、ただの運だったかもしれません。

生活のレベルは上がっても、自分のレベルは上がってないかもしれません。

 

綱渡りな生活

たまたまフリーザを倒してしまったら、次に戦うのは19号やセルですからね。

スーパーサイヤ人にもなれないのに、強敵と生死をかけた戦いをすることになる。

成功と虚栄は人間を弱くして、未熟なまま年をとらせる。*1 

自分が未熟なまま成功してしまい、さらなる成功を求められる。

どんどん細くなる鉄骨*2を渡らされているかのような気分です。

そんな状況の中で心をすり減らしながら生きるのは、私には荷が重い。

 

”まとも”な大人になれなかった

取らぬ狸の皮算用ってこのことなんでしょうね。

まあ思ってしまったものは、どうしようもありません。

でもレベルが上がってしまうのは、避けられないんでしょうね。

何もしなくても年を取ってしまいますし。

”まだ若いから”という無敵の言い訳も通用しなくなるのも時間の問題です。

年を取ったらもうちょっとまともな人間になるかと思ってたんですけど、「まぁこんなもんか」ってくらいに落ち着いてしまいました。

まだガキなだけかもしれません。

弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。*3

 ガキのついでに、弱虫みたいですね。

 幸福も怖い。

幸福そのもの、というよりは幸福の終わりが恐ろしい。

まあずっと幸福が続くこともないでしょうし、実質幸福が恐ろしいのですね。

生活が幸せになってしまうことが怖い。

幸せに満ちた生活で「まぁこんなもんか」と思ってしまうのも怖いですし、幸せが失われるのも怖い。

そして幸せを失う事におびえながら過ごさなくてはいけないのも怖い。

 

穏やかな日常を過ごしたい

幸福でも不幸でもなく、成功も失敗もせず生きていたい。

私にとっては、幸せとも不幸せとも言えないような日常が一番の”幸せ”なのかもしれません。

実際のところ、締め切りもタスクもなくフワッと過ごしている日常が一番好きです。

他の人に「生きてる感じがしない」とか言われそうですけど、このくらいが性にあっています。

これに飽きて、何かしようと決心することもたまにあるんですけどね、毎回後悔しています。

決心したときはやる気に満ち溢れていても、実際にやるとなると話は別です。

「なんで自分からストレス要因を入れてしまうんだ…」と毎回思えど、次には活かせずじまいです。

マゾなんですかね。

 

人生はRPG?

人生もプレステージできたらいいんですけどね。

強くてニューゲームみたいな。

無駄にレベルだけ上がってしまって、いろんなフラグを逃してきた気がします。

最初にしか会えない村人も逃してきましたし、始まりのダンジョンにある宝箱や装備も拾わずに過ごしてきてしまいました。

 スキルポイントもしょーもないことに浪費してしまって、覚えるべき魔法を覚える余地も残っていません。

でも今更戻るには進みすぎてしまいました。

ストーリーが進展しすぎて、もう始まりの村には戻れません。

魔王に焼き払われた村は、エンディング後まで復活しませんからね。

 

とりあえずクリアしておくしかなさそうです。

まだ「たいあたり」しか覚えてないんですけどどうしましょう。

どこかに、メチャクチャ強い聖剣みたいなの落ちてませんかね?

隠れてきたオタクと、市民権を得つつあるオタク趣味

 


 居場所と承認欲求の再考

オタクについて

いわゆるオタクは以前とは違ったもの、要は隠す必要のないものになっており、私のような旧世代のオタクは居場所を力を失いつつあるかもしれません。

もはやオタク内のマイノリティーになりつつある上に、オタクだったのは昔のことでした。

なので積極的なオタクとは呼べないような存在ですね。

そして自分の居場所を肯定するために、新しいオタクを快く思うことはできません。

「オタクに恋は難しい」にあるようなオタク像に拒否反応を示してしまいます。

 

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二人のオタク

元々の記事で、オタクが先か好きが先かという疑問を持っていました。

オタクだからアニメを見るし○○だ。

ではなく、

アニメが好きだったり○○だからオタクだ

が先だと思うんです。

 

初期のオタクは後者のタイプだったのではないでしょうか。

一人の人間がいて、その人の趣味なり属性がオタクだった。

あくまでそれは、その人の趣味なり属性であって、その人そのものではありません。

善悪は別として、趣味なり属性なら隠しても悪く思われても、大した問題には感じられないでしょう。

オタクという属性を持つ人がオタクと呼ばれていた時代です。

 

ここで少し話は変わるんですけど、人は趣味なり労働で居場所を確保する必要がありますよね。

金銭的に可能でも、一生ボーッとして生きていけるとは思えません。

なので何かやること、いわば居場所が必要です。

全く仕事がない職場に、居場所がないと感じるのと同じですね。

どうやって居場所を得るのかというと、趣味なり仕事で特異な点を見せることです。

集団内で他に見ないスキルやモチベーション、特徴を見せることで居場所を確保できます。

でも仕事や勉強でそういう際立ったポイントを見せるのは難しいでしょう。

テストなんかはいい例で、点数で画一的に評価され、トップ層以外で個性を見せて居場所を確保するのは難しいです。

じゃあ代わりに趣味で居場所を見つけることも可能です。

やってて楽しいことなら評価は気になりませんし、趣味は幅広いので居場所を探すのも簡単です。

 

なのでオタクがいろんな人の居場所になってきた。

一度ついた名前は離れ辛いので、その人口は増える一方になり、ある時市民権を得ることになる。

人数が増えると活動も活発になり、ある時大っぴらにオタクであるということを公表するようになります。

そうなってくると、ある人を呼ぶときに、人間+オタクだったのが、人間という広すぎる集団から抜け出して居場所を確保するために、「オタク」というものになったのではないでしょうか。

今ではオタクという1つの個性、もっと言えばその人そのものがオタクという風に捉えられます。

こうなってくると、オタクやオタク趣味を否定することは、人格の否定に繋がるので問題になってきますね。

それが今の状況ではないでしょうか。

オタクというかくすべき趣味から、主体的なオタクに変わってきた。

オタクはベースとなる人格に近いものなので、否定されるわけにはいかないし、オタクなりオタク趣味を認めてもらうために存在感を発する必要がでてきますね。

そうなってくると以前のように、隠していた世代の考え方には反発してきます。

「ゾーニングはした方がいい気がするけど、表現の自由もなあ」のような微妙な気持ちはここから来てそうです。

そしてオタクは主体なので、それで生きていきたいという欲求も出てくるでしょう。

プロゲーマーや創作活動の普及がこの辺にあたりそうです。

 

居場所を失ったオタクと新しいオタク

居場所を失いつつあるのを止めたい旧世代オタクvs主体的で居場所を認めてほしい新世代オタクみたいな状況が、今の感じなんですかね。

私は元オタクと呼ばれるようなポジションで、昔ほどのモチベーションはないけど、オタクじゃないとは言えないっていう立ち位置にいます。

脱隠すべき思想世代みたいな感じかな。

しかしその影響を受けているので、大っぴらにオタクだよ~とはいいたくありません。

今日の新世代オタクの登場で、そこまでの個性は無いけどオタクじゃないとも言えない私は居場所を失いつつあるわけですね。

そうなると、居場所を得つつある新世代オタクに嫌悪感なり否定したい気持ちを見せることになるでしょう。

 

全体で見れば、私も含めたオタク全般が居場所を得ようという運動なので、否定するのは本末転倒ではあるんですけどね。

「自分の居場所を得るために、母集団であるオタク全般の居場所を否定する」という本当に本末転倒な思想ですな。

 

居場所をかけた戦い

じゃあ次に何が起こるかというと、まあオタクの居場所は確保されるんでしょうね。

居場所は社会の認可制であってはいけませんし。

そして次は、主体になったオタクがもう一度、属性に戻るのではないでしょうか。

オタクというのが居場所を得られたので、それだけではマジョリティーと同じで自分の居場所に特異性がありません。

そうなると今度はさらに細かくなって尖ったオタクが登場しそうです。

オタクのなかでも居場所を確保できる特異性を持ったオタク。

今の私(たち)には理解しがたい趣味嗜好を持つようになるんじゃないですかね。

胸はさらに大きくなり、猟奇的なものを好み、これまで思い付きもしなかったり、なんとなくタブー視されていた趣味を持つようになる。

 

そして彼らがまた居場所を認めてほしくなり…と永遠に続くのでしょうね。

 

これっいろんなことに適用できそうです。

趣味みたいな属性だったのが主体になり、そのなかで居場所を得るために対立が起こり認められ、その属性だったものがさらに細かくなる。

命名されることにより、主体的なモノになる。

言語は機能を持っているので、優劣ができて居場所を失う人がいるのも当然ですね。

使える、使えない、用途にあっているかどうか、どの程度当てはまるかなどがわかるようになってしまいます。

 

命名と多様性

ここで少し話はとぶんですけど、世間では多様性が大事!みたいな動きがありますよね。

そもそも多様性ってわざわざ認めてあげるモノじゃないよっていう突っ込みはおいておいて、その人の個性なり出で立ちを大切にするようになりましたね。

LGBTも認められ、ついでにquestioningのQとかAとかもくっついたりするそうです。

名前がつくことの効果は大きいですよね。

存在を認知させて居場所を確保する。

しかし、この命名によって多様性を確保するやり方には限度があるように感じます。

先ほどのように、名前をつけると集団ができ、またそのなかで居場所を奪い合うことに繋がるでしょう。

「私はこれとはちょっと違うから」という理由でまた別の名前ができたり、その名前の中でも優劣が生まれて新たな問題に繋がったりするでしょう。

累進課税の問題点と似た感じです。

命名されることによるデメリットが、メリットよりも大きくなってしまう人もいるでしょう。

 

飛べなくっても鳥は鳥

具体的な解決策はわかりませんが、結局いきつく所って「人間って一人一人別の人間だよね」っていう話じゃないでしょうか。

便利のためにつけた名前が主体化して、独り歩きしてしまう。

男って書くだけで「田んぼで働いてると思ってるのか!」とか、

女って書くだけで「くの一だと思ってるのか!」みたいな突っ込みをされてしまう世の中です。

一先ずは、名前に惑わされずに、目の前の人間と自分をしっかりと見ることが大切なのではないでしょうか。

みんな違ってみんなイイ、飛べない鳥も、鳴らないスズもみんな違ってイイんじゃないですかね。